家族から見た葬送墓制のあり方―比較社会史の立場から(要旨)
茨城キリスト教大学文学部文化交流学科
森 謙二
日本とヨーロッパの家族の在りようを踏まえて、それがどのようにそれぞれの地域の葬送墓制に影響を与えたか、それについてお話をしたい。
(1) 1975年から学生を連れた社会調査を三〇年以上にわたって実施してきた。この調査を通じて、多くの発見があった。「墓地の中に社会がある」、いわば墓地を通じて、社会のあり方であり、社会構造の違いが見えて来たのである。
(2) もう一つは、宗教の影響である。キリスト教の影響を受けたヨーロッパと、祖先崇拝の影響を受けた日本との間に、そのシステムに大きな違いが生まれていた。死者を葬るという営みは人間にとって普遍的ではあるが、それぞれの歴史の中で刻印された宗教のあり方がそれぞれの葬送墓制に大きな影響を与えた。
(3) 死者の救済をキリスト教に委ねたヨーロッパと、死者を家の先祖として位置づけ日本との間では、現代に至るまで家族や葬送墓制に大きな違いを残している。J・グディーやM・ミッテラウアーはキリスト教が家族の発展にどのような影響を与えたについて議論したが、この議論を踏まえながらこの二つ地域の葬送墓制について議論していきたい。
(4) 18~19世紀にかけて、ヨーロッパでも日本でも「家族墓」が登場する。これはともに近代の産物であるが、その「家族墓」の受けとめかたは大きく異なっている。神と共に眠ることを求めた教区教会の墓地(Kirchhof)から逃れて、Friedhofと呼ばれる共同墓地に親密な家族ともに眠ることを望むようになるのは「家族の世紀」にふさわしい時代の形象であった。家族の死者に対する役割は、死者を墓地まで運ぶことであり、このことが「埋葬義務」としてともに第一義的には近親の家族に求められる。
(5) ヨーロッパでは、近代の形成とともに伝統的に教会の支配下におかれてきた墓地が世俗的な権力としての国家の支配下に組み込まれる。近代国家としての政教分離政策と公衆衛生政策が、公役務として墓地・墓地行政のあり方を作り上げてきた。それから100年後の19世紀末から20世紀初頭にキリスト教からの影響を逃れるため自由主義的な試みの中での火葬の受容が国家法によって表明された。この段階でヨーロッパでは埋葬の方法は「死者の意思」によって決まるという制度が定着するようになる。
(6) 日本では、近代になって〈家〉を単位として歴代の家構成員が同じ墓地や墳墓を共有する〈家墓〉が誕生した。明治天皇制国家の下では、〈家〉制度は強化され、死者は〈家〉の枠組みに閉じ込められ、葬送や墓地の問題は〈家〉の問題として私的な問題として位置づけられた。日本でも墓地政策は公衆衛生政策として展開したが、墓地問題を公役務として捉える視点は希薄であった。〈家〉は死者達を埋葬する役割を担ったが、個人化と少子化の中で〈家〉の維持が困難となり、さまざまな混乱を引き起こすようになった。日本では、これまで死者を家に委ねてきたために「死者の意思」を尊重するという枠組みが形成されず、残された家族=アトツギの意思だけが強調され、それが現代の混乱に拍車をかけている。
1 学生を連れた調査
①昭和50(1975)年11月22日~26日~昭和51年 茨城県東茨城郡茨城町 主に農家相続
・『創造』第5号(1976) 「〈都市化〉されつつある農村における農家相続」
②昭和52(1977)年~昭和55(1980)年 茨城県久慈郡里美村大中・折橋・徳田・里川 農家相続・民俗・社会調査
・『創造』第7号(1978) 「過疎農山村と農家相続=里美村における実態調査報告」号(P.13-P.40)
・『創造』9号(1980)「北関東地方における村落と家族」ー茨城県久慈郡里美村での実態調査報告P.45-P.67
〇「姉家督相続の一考察『法社会学31号』(1979)p.117-p.140
〇「北関東地方の一村落における隠居制と相続制」『家族史研究』創刊号(1980) p.218-p.251
〇「隠居制と家-茨城県北部の隠居慣行を中心として」竹田旦編『民俗学の進展と課題』国書刊行会(1990)
③昭和56(1981)年 静岡県賀茂郡河津町逆川 伊豆の民俗と家族
・『創造』11号(1982) 「伊豆地方の村落と家族-静岡県賀茂郡河津町逆川の事例」P.50-P.73
〇「村落構造と村規約(近代)ー資料」『茨城キリスト教短期大学紀要』21号(1981)
④昭和57年(1982)~ 秋田県河辺郡雄和町水沢 同族集団と総墓
〇茨城キリスト教短期大学紀25号(昭和60年) 「秋田県における同族・総墓・村落ー河辺郡雄和町の事例を中心として」
〇「秋田における同族・総墓・村落-河辺郡雄和町の事例を中心に」義江明子編『日本家族史論集7 親族と祖先』吉川弘文館(2002)
⑤昭和58(1983)年8月7日~11日 茨城県水海道市大輪町 民俗・社会調査
・『創造』第13号(1984) 「茨城県南部の村落と家族ー水海道市大輪町実態調査報告」)P.83-P.129
⑥昭和59(1984)年8月17日~21日 石川県珠洲市三崎町大屋(能登半島)
・『創造』第14号(1985) 「奥能登地方の民俗と社会ー石川県珠洲市三崎町大屋地区調査中間報告」
⑦昭和60(1985)年~昭和61(1986)年 長野県伊那郡清内路村ー清内路村の社会構造と墓制
・『出作りの里-その民俗と歴史』(新葉社)
⑧昭和62(1987)年8月16日~18日・昭和63(1988)年~ 秋田県仙北郡田沢湖町田沢 民俗・社会調査
・『創造』第17号(1988) 「田沢の民俗と社会ー秋田県仙北区郡田沢湖町調査」
〇「田沢の民俗」『北方風土』第21号(1990 p.5-p.65
⑨昭和64(1989)年~平成9(1997)年 都祁村の民俗と社会(宮座・両墓制)・家族
昭和64(1989)年8月7日~10日 奈良県山辺郡都祁村針
・『創造』第19号(1990)「都祁村の民俗と社会/奈良県山辺郡都祁村針調査報告者-予備的考察」
平成3年(1991)~平成4年(1992) 奈良県山辺郡都祁村吐山
・『共同体・宮座・家族ー奈良県山辺郡都祁村針・吐山』(特色ある研究・1997)
平成5(1993)年8月31日~9月3日 奈良県山辺郡都祁村甲岡・来迎寺
・『創造』23号(1994) 「都祁村の民俗と社会-その2-甲岡・来迎寺調査報告書」
平成6年(1994)8月30日~9月2日 奈良県山辺郡都祁村友田
・『創造』第24号(1995) 「都祁村の民俗と社会-その3・友田地区調査報告書」
平成7年(1995)8月27日~31日 奈良県山辺郡都祁村小山戸・藺生
・『創造』第25号「都祁村の民俗と社会-その4・奈良県山辺郡都祁村小山戸・藺生調査報告書」
〇「共同体(ムラ)祭祀・宮座・個人」の法社会史的考察」(高橋統一先生古希記念論文集『性と年齢の人類学』.岩田書院(1998)
〇『吐山の墓制-墓と祖先祭祀についての法社会史的研究・村落構造と家族の関わりで』1995年文部省科研費報告書(1997)
⑩平成8(1996)~平成9(1997)年 三重県志摩郡大王町船越 民俗と社会
・『創造』第26号(1997) 「志摩・船越の民俗と社会-予備的考察」(p.61-p.112)
⑪平成10(1998)年8月28日~9月2日~平成11年 新潟県岩船郡郡関川町
・『創造』第28号(1999) 「新潟県岩船郡関川村調査報告書」(p.23-p.41)
⑫平成12(2000)年~平成20(平成8)年 沖縄県読谷村楚辺 問中制度と墓制
〇「.門中と門中墓-読谷村楚辺の事例を中心に」『民俗文化研究』6号(2005)
〔資料1〕「墓・家族・市民社会」『創造』第34号(2005)からの抜粋
○ヨーロッパにおける血縁思想の克服
中世を通じて、おそらくはドイツでもフランスでも、死者は教会の中あるいは隣接した地域に埋葬された。「聖人の近くに、教会の近くに」という死者の願いは中世を通じて変わることがなかった。そして、死者を教会に委ねることによって、家族は死者から自由になった。残された家族の役割は死者を教会まで運ぶことでにあり、死者の祭祀を家族が継承することはなかった。アリエスは、次のように述べている。「一二世紀以降、人は、霊魂は死に際して肉体を離れてしまい、時間の終わりを待たずに、ただちに個別的な審判を受けるのだと信ずるに到りました。死に直面した人間の孤独は、人間が自己の個別性に気づく場であり、遺言書の慈善事業への遺贈の条項は、この個別性を物質的破壊から救い出し、それをあの世まで引きのばす手段であるのです」と*1。このアリエスのことばは、ヨーロッパ・キリスト教社会の「血縁思想の克服」の問題に対応する。
ヨーロッパ社会における「血縁思想の克服」に関しては、論争の歴史がある。ジャック・グーディは、「最初の紀元の中頃から、ヨーロッパの親族システムに変化が起こり、それが以前の慣習との断絶をもたらし、そして後の時代にも影響を与えた。これらの変化は、キリスト教の到来と結びついているように思える・・・」と論じ*2、キリスト教の受容を通じて、近親婚禁止の範囲が拡大され、ヨーロッパの親族システムに大きな影響を与えたとする。四世紀に始まり十一世紀には第七親等まで拡大した近親婚の禁止は、インセスト問題とも関わりながら、ヨーロッパの婚姻システムを族外婚規制原理に中におくことなったのである*3。グーディは、これを教会の所領獲得への関心、信者の遺贈を得るために従来認められていた相続戦略を妨げたのだという。つまり、「教会が成長し、生き延びるためには財産を集積しなければならなかったが、それはひとつの世代から次の世代に継承される仕方に統制を加えることを意味した。世代間の財産の分配は、結婚と子ども嫡出承認のパターンに関連するので、教会は相続戦略へ影響を与えるために、これらにたいする権威を獲得しなければならなかった」*4と論じた。
これに対して、ミッテラウアーは、グーディの問題提示に高い評価を与えながらも、近親婚禁止は、ユダヤ教の影響を受け、またローマ法の影響を受けたとしながらも、「キリスト教のインセスト規定の厳格化を中世ヨーロッパにおける実際の家族関係の変化と関連させる場合、総じて大いに慎重でなければならない」(八十頁)とする。そして、ミッテラウアーは次のように問題を整理する。*5
なぜキリスト教はインセスト規定の著しい厳格化によって、そのユダヤ教的な起源から、そしてまた古代・中世初期の他の宗教から、かくもはっきりと自身を区別したのか。その原因への問いは、次のような一般的な宗教史的テーマに連なるものであり、それは社会史においても重要であると思われる。すなわち、救済への期待にとっての血統の意義、祖先の功徳の子孫への継承、宗教上の義務としての父系家系の維持、血縁の、もしくは擬制的な子孫による死者供養の継続、司祭家系の世襲的カリスマである。こうしたすべての事柄において、キリスト教はその出身母体や周辺社会の伝統と絶縁したのである。(傍点、引用者)
ここで重要なことは、ヨーロッパの家族が血縁思想を克服し、死者(祖先)の祭祀の機能を家族から解除したことである*6。死者は教会に委ねられ、死者は教会あるいはそれに隣接した墓地に埋葬されるようになる。アリエスは次のように言う。「キリスト教は最後には、人間の救済をキリスト教の托身と贖罪にゆだねることによって、救済宗教の希望を取り戻した」*7。死者は家族とともに教会に葬られるわけではない。「最後の審判」は一人一人が受けなければならない最後の試練ということになる。また、「遺言書とは、現世的なものを完全に失うことなしに永遠なるものを得る、つまり富が救済行為に結びつけられるほとんど秘跡とも言える宗教的手段であった。教会の仲立ちのもとで死すべき個人と神との間で結ばれた保険契約」であるとする*8。
家族から解除された死者を祀る機能が解除され、それは教会の役割となった。厳密には、その機能が教区共同体(Pfarrgemeinde)に移譲されることになった。ミッテラウアーは「ヨーロッパ圏のキリスト教諸民族にあっては、どこでも(教区)共同体が中心的な祭祀団体であったことは明白である。宗教的な共同生活は、すぐれて教区において組織されている。墓場は教区教会の周囲に集められるが、もともとは家族のものであった祭祀形態が完全に共同体の枠組みに位置づけられていったことを、それは明白に示すものであると思われる」*9と述べる。十一・十二世紀から十八世紀までの間、死者は教会のものであった。
○ミッテラウアーの見解
ミッテラウアーの見解は「ヨーロッパにおける家族の発展の多くの特徴は、こうした祭祀形態がかりにまえに存在していたとしてもすでに早期にキリスト教によって抑圧されたからこそ、現われてきたものである」として、ヨーロッパの家族を特徴付ける三つの指標について、次のように論じる*10。
まず、「ヨーロッパ的結婚パターン」である。「生殖行為についていえば、祖先崇拝は一般に早婚をもたらす。死後の運命が男系子孫にによる死者供養に依存しているとすれば、できるだけ早く子孫作りを始めるのが得策であった」が、ヨーロッパでは平均的に高い結婚年齢は高いこと。ここでは、祖先崇拝が行われている地域のように、血縁によるアトツギの確保は重要視されていないこと。第二に、結婚後の居住規制である。「ヨーロッパ的結婚パターン」の地域では、新居で新所帯をなすのが通例であった。しかし、祖先崇拝を行う社会では、若夫婦の父方への同居を伴い、多世代家族の成立を助長し、家長は生涯にわたってその地位を維持する。また、「ヨーロッパの農民・手工業者の家族においては、寡婦は再婚をしても従来住んでいた家をそのまま与えられるのが、一般的であった。この「妻に有利な居住」は父系的な祖先祭祀を行う社会では考えられないものである。なぜから、それによって男系家系が中断されるからである、とする。第三は、ライフ・サイクル・サーバントの問題である。ヨーロッパでは若者期の一定期間を奉公人と過ごす慣習があるが、このような慣習は「先祖供養のために父の家に拘束されないところでのみ現実化する」とする。
ミッテラウアーは、また、「祖先祭祀」の機能が解除されたヨーロッパの家族について次のようにも言っている*11。
血統と生殖が宗教的な意義をもたないところでは、早婚や結婚一般の重要な前提が抜け落ちる。父系家族の維持が何の役割も演じなくなったところでは、家族構成の新しい形態のために自由な空間が生まれる。親族結合が宗教的共同体における結合にたいして後退したところでは、家族機能が家族以外の社会集団に移動するプロセスが始まる。
もう一つ、ミッテラウアーが挙げた例を示しておこう*12。表「ある農家の再婚による家の継承」は、下オーストリアのある農家の再婚による家の継承を示したものである。一七八八年に二四歳と二一歳の夫婦がいた。一八〇〇年に家長(夫=A)は死亡、妻(X)は三三歳であった。この表には現れていないが、この時二人の息子と三人の娘、合計五人の子どもがいた。一八〇四年に長男が家を出て、一八〇五年に妻は再婚をする。一八二〇年までに前夫との子どもはすべて他出する。また、再婚をした夫(B)との間に産まれた子供も、一八二五年に外に出る。一八二九年に妻(X)が死亡し、その夫(B)はYと再婚をするが、Bはすぐに死亡し、一八三二年にYはCと再婚をする。そのCも死亡し、YはふたたびDと再婚をすることになる。めまぐるしい再婚の中で、この農家は六〇年以上にわたって存続をしてきた。
このような再婚による家の継承は、祖先祭祀を組み込んだ日本の家においてはあり得ないことである。わが国では、家が祖先祭祀を継承する母胎であったとしても、血統の連続性という意味では比較的に緩和されたシステムをもっていた。家の継嗣として非血縁の養子を迎えることもしばしばあった。しかし、そのような場合でさえ、家の継承は「親子」によって行われるのを原則とした。兄弟間において家が継承されるケースがあったとしても、兄と弟は養子縁組による「親子」関係を擬制された。「再婚」による家の継承は、比較的緩やかな〈血縁〉思想しかもたない日本においても、考えられない現象である。ここに、「祖先祭祀の観念を組み込んだ家族」と「組み込まない家族」の差異があり、ミッテラウアーはこのように血縁の連続性から自由になった家族、つまり血縁思想を克服した家族をヨーロッパの家族のモデルとして措定したのである。
*1 アリエス(伊藤晃・成瀬駒男訳)『死と歴史ー西欧中世から現代へ』(みすず書房、一九八三)一七〇頁
*2 Goody:Jack, The developement of the family and marriage in Europe, Cambridge1983,p.48
*3 グーディは、キリスト教における近親婚禁止の拡大を、地中海世界における二つの家族・親族システムと対峙させた。つまり、族外婚的傾向をもつ西方システムと、族内婚的傾向をもつ東方(オリエント)システムである(Goody 1983, p.7-)。
*5 Mitterauer: Michel, Historische-Anthropologische Familenforschung – Fraggestellungen und Zugangsweisen, Wien 1990,S.76-(若尾祐司外訳『歴史人類学の家族研究ーヨーロッパ比較家族史の課題と方法』〔新曜社、一九九四〕、七九ー八〇頁)
*6 ミッテラウアーは「血統的な出自のもつ救済上の意義に関する評価においては、根本的に新しい方向付けがなされた。決定的に重要であるのは、もはやアブラハムからの血統と祖先の功徳ではなく、洗礼を通じての新生であった。血統宗教から帰依宗教へにおいては、血縁はその意義を失った」(Mitterauar 1990, S.63. 『歴史人類学の家族研究』〔前掲〕六四頁)と、「血縁思想の克服」について論じている。
*7 アリエス(成瀬駒男訳)『死を前にした人間』(みすず書房、一九九〇)八十一頁
*9 Mitterauer:M/Sieder:R, Vom Patriarchat zur Partnerschaft – zum Structurwandel der Familie, München 1984, S.97(若尾祐司・典子訳『ヨーロッパ家族社会史ー家父長制からパートナー関係へ』〔名古屋大学出版、一九九三〕八五頁)
*10 Mitterauar 1990, S.30.(『歴史人類学の家族研究』〔前掲〕二四ー五頁)
*11 Mitterauar 1990, S.76.(『歴史人類学の家族研究』〔前掲〕八〇頁)
*12 Mitterauar 1990, S.202.(『歴史人類学の家族研究』〔前掲〕二一四頁)