第一部
無縁墳墓についての研究
-無縁墳墓改葬公告の分析-
1 研究目的
わが国の墓地や墳墓の承継は、民法第 897 条が前提としているように、家族=子孫(アトツギ)によって承継されることが普通である。しかし、少子化やそれに伴う家族構造および意識の変化のなかで、墓地や墳墓を子孫によって承継されることが困難となり、「無縁墳墓」の増加が深刻な社会問題となってきた。もちろん、「無縁墳墓」増加の問題は今に始まったものではなく、これまでも人口の移動のなかでも墳墓の無縁化がおこり、明治末期の資本主義の展開のなかでもその問題点が指摘されてきた。しかし、今日の、特に昭和 49 年以降の急激な少子化と高齢化の進行が、この慣行=システムを事実上崩壊させることになる。すなわち、少子化は個々の家族にアトツギの確保を不可能にし、墓の承継を家族=子孫に委ねることを事実上困難にさせている。つまり、家意識も希薄になり、また人口の移動が激しい大都市あるいは急激な人口減を招いた過疎地域においても墳墓の「承継者がいないこと」=墳墓の無縁化の問題は深刻であったが、少子化の進行は「祖先祭祀」を前提としたわが国の死者祭祀の伝統の基盤を揺るがし、今やそれに変わるシステムを必要としている。
戦後の、高度成長期における墓地問題は、墓地不足に焦点があてられた。しかし、近年では「承継者がいないこと」が重要な墓地問題の一つとして登場してきた。また、この10年の間に、大都市を中心としてアトツギの存在を前提としない 1,000 人から 5,000人を合葬するような共同墓(いわゆる「永代供養墓」)という新しい墳墓の形態が提案され、現在では首都圏を中心に 250 基を超える共同墓が販売されるようになった。
現在、墓地・墳墓、その承継のあり方が大きく変貌しようとしている。平成 11 年 5 月に「墓地、埋葬等に関する法律」の施行規則が改正され、官報によって無縁墳墓の改葬が公告されるようになって、墓地の実際の使用者の権利が守られないまま無縁改葬の簡素化が始まった。
本研究においては、(1)この無縁改葬公告の分析を通じて無縁改葬の実態にせまりながら、(2)現実の墓地において「無縁」あるいは現実にはその使用者を確認することができない墳墓がどの程度存在するのか、(3)人々は「墳墓の無縁化」にどのように対応しようとしているのか、(4)現在の新しいシステムの模索のなかにどのような問題が含まれるのか、これらの問題を実証的に明らかにすることを研究目的とする。
日本の近代家族が現在に至るまで祖先祭祀の機能を組み込んだきたことを考えるならば、少子化によるこの変化の実証的研究は日本家族の大きな変容を写し出すことになる。
2 無縁墳墓改葬の法制度
2-1 「無縁墳墓」の概念
「無縁仏」とは「祀り手のいない死者」ということになるのだろうが、近世以降「無縁」は二つのカテゴリーに分類され、二重の意味で使われてきた*1。第一は、「帰るべき家の遊鬼」つまり行き倒れ・漂流死体・災害時の罹災者等の身元不明人である。民俗学では「ミサキ」が呼ばれる無縁仏がこれにあたる。しかし、この種の「無縁」概念はおそらく世界中どこにでもあるのだろう。
墓地に限定して言うならば、我が国でも多くのムラの中で「行き倒れ」等の身元不明者を埋葬する墓地を設けていたし、近代になると、国が「行旅病人及行旅死亡人取扱法」(明治 32 年法律第 93 号)を定め、行旅死亡人[身元不明の死者を指す]の埋葬について規定した(第七条 1 行旅死亡人アルトキハ其ノ所在地市町村ハ其ノ状況相貌遺留物件其ノ他本人ノ認識ニ必要ナル事項ヲ記録シタル後其ノ死体ノ埋葬又ハ火葬ヲ為スヘシ。2 墓地若ハ火葬場ノ管理者ハ本条ノ埋葬又ハ火葬ヲ拒ムコトヲ得ス)。
行旅死亡人(身元不明者)の埋葬は、市町村に埋葬の義務を負わせている。オーストリア・ウィーンではこのような身元不明者を埋葬する専用墓地がある(写真1)。かつての日本の伝統的なムラ(村落共同体)でも専用の墓地を設けて埋葬した例を、奈良県山辺郡都祁村で見たことがある。住民達が使う墓地(埋め墓)に隣接して身元不明者を埋葬する墓地があった。可視的には「無縁墓地」と住民の墓地の境界ははっきりしないが、帳簿上は明確に区別して記録されていた。
第二は「祭る子孫がいない霊」つまり独身の男女・出戻りの女性・子どもがいないオジ・オバの血縁霊である。基本的には家に規定された概念である。この「無縁」概念の背後には、家社会のなかで、どのように生きることが生を全うすることであり、どのように生きることが生を全うしないのか、その姿が隠されている。これまで多くの人々が「無縁」になる恐怖から解放されるために、祭祀承継者の確保に努めてきたのである。
幼児の墓地については、分類が難しい。幼児の埋葬は、第二の分類の中で埋葬されるというより、第一の分類に近い形態で祀られるケースが多い。たとえば、近畿地方では「子墓」と称して、一般の墓地とは区分して別の場所の一角に設けているケースが多い。ヨーロッパでも、墓地の一角を利用して幼児用墓地(子墓)を設けている。「罪なき嬰児の墓地」は教会に葬ることができない洗礼前の幼児の墓地であるが、この伝統はヨーロッパ諸国で現代まで続いている。
身元不明者の墓と子墓は、墓地が一般の墓地から分離されるという意味で、第二に分類の死者の墓地とは異なっている。身元不明者も幼児も共同体(Gemeinde)の構成員ではないから、別の場所に埋葬されることになる。とは言え、身元不明者と幼児が同じ場所に埋葬されることもない。その意味では、身元不明者の墓地と幼児の墓地ではその墓のもつ意味は異なっていて、第一のカテゴリーからも区別される*2。ただ、子墓は、日本社会では次第に第二のカテゴリーに組み込まれてくるようになる*3。近世末期から近代にかけて、言わば家族の親密性が高まってくると、幼児や子どもの死に対して家族は敏感に反応し、これを家族問題として捉えるようになり、幼児や子どもの供養や建墓に熱心になってくる。
しかし、「無縁墳墓」という場合の「無縁」概念は、このような身元不明者や幼児の死者を無縁という意味とは異なっている。また、第二に分類された家の正式の構成員と見なされなかった独身の男女・出戻りの女性・子どもがいないオジ・オバ達も自らを祭祀する子孫を持たなかったので「無縁」と呼ばれたが、「無縁墳墓」という場合、彼らをさして「無縁」と呼んでいる訳ではない。家社会の中ではオジ(オンジ)・オバ(オンバ)と呼ばれ、一家を構えることなく一生を過ごす人がいた。このような人々は子どもを持たないことが多く、子どもやその直系の子孫が祭祀を受け継いでいくことはなかった。もっともこれらの人々が祭祀の対象にならなかった訳ではなかった。その家の当主夫婦の墳墓の脇に小さな墳墓が設けられ、たとえその家の祭祀の中心にならなくてもその家の子孫によって祀られていた。したがって、彼らの墳墓がただちに「無縁墳墓」になるという訳ではない。
「無縁墳墓」の「無縁」とはたしかに祀り手のいない死者ではあるが、正確にはかつて祀り手がいたが、現在は祀り手がいなくなった死者のことであり、いわゆる「祭祀の承継者」がいなくなった墳墓である。一般には、無縁墳墓とは葬られた死者を弔うべき縁故者がいなくなった墳墓と定義される(最高裁判所昭和 38 年 7 月 30 日決定)。奇妙な話ではあるが、もともと無縁である墳墓はそれが市町村に管理下におかれている限り改葬されることはない*4。しかし、もともと有縁の墳墓であってその承継者がいなくなった時に、無縁墳墓として改葬されるのである。この意味では、「無縁墳墓」の「無縁」概念はきわめて特殊な法律上の概念であると位置づけることができるだろう。では、なぜこのように特殊な法律上の概念ができあがってきたのか、若干の言及を加えておこう。
写真1 無縁墓地(ウィーン・オーストリア)
写真2 子墓(ハイデルベルク・ドイツ)
2-2 無縁墳墓改葬の制度
2-2-1 明治期の「無縁墳墓」問題
明治 20 年 10 月、「無縁墳墓」について次の記事がでてくる(ともに、『東京市史稿 帝
都二六』二四一頁を参照)。
(A)「元来府下墓地ノ如キハ他府県卜相異り現今在京致サヽルモノヽ墳墓モ夥多ニシテ、将来亦住居人ノ転換甚シキハ申迄モ無之、故ニ共葬墓地卜為シ、将来誰彼ヲ論セス埋葬差支ナカラシメサレハ後年非常ニ面積ヲ増加セサルヲ得サル場合ニ可相成、又市区改正等ノ事業ヲ施行スルニ當テハ市中ニ在ル墓地ハ之ヲ取除キ、以テ道路ヲ広メ且市区ノ対面ヲ修飾セサル可ラス」(東京府知事から内務大臣宛の伺い・明治 20年 10 月 20 日受出)
(B)「元来ソレ狭キヲ慮ルノ際無縁墓所ノ増加スルハ世事ノ止ムヘカラサル所ナルニ、之ヲ除去スルコト能ハサルハ益々墓地ノ狭キヲ感スル最中ニ、近来ハ一般ノ人情市外ノ墓地ニ做テ廣濶ノ地ヲ望ミ候ヘトモ・・・国ノ為メ寺ノ為メ不経済ナルハ知リナカラモ之ヲ看過セサルヲ得ス。」(寺院総代(住職)から知事宛の「旧寺院境内墓地ニ付伺」。
二つの文はともに無縁墳墓を扱っている。(A)東京府下は、移転のために無縁(このことばは使っていないが)になっている墳墓が多く、将来もその可能性があるので墓地は原則として「共葬墓地」であるべきだとしている。(B)無縁墓所になるのはやむを得ないが、そのために墓地が狭くなっている。人は広い墓地を求める傾向があり、不経済であるが寺には何の権力もない、と続く。この二つの文章は次のように関連した内容を持っている。
(B)の文は、昔から寺院の墓地は檀家専用の墓地として利用してきたと述べた後、これまで共葬墓地として位置づけてきたものを寺院の専用の墓地にして地券を下付せよと要望している。次のように述べる。「墓地ノ中維新後一般共葬地同様ニ変目相成侯向ヲ此度改テ各寺院住職及ヒ檀家共有ノ墓地即チ専有墓地トナシ、且ツ其寺院名受ノ地券御下附有レ之侯様願度儀ニ御座候。右特別ノ御詮議ヲ以テ至急何分ノ御指令被下度奉請願候也」。つまり、お寺が使っている寺院専用墓地は無縁墳墓が増えて狭くなっている。もともと上知した墓地は現在では「共葬墓地」になっているが、本来その「共葬墓地」はお寺の専用墓地であったので、この墓地をお寺に返してお寺名義の地券を発行して欲しいという要望を東京府知事宛に各宗派の寺院の代表者が東京府知事宛に出したものである。
これに対して、(A)は(B)に対する回答のために内務大臣宛に東京府知事から伺書を出したものである。(A)は、人の移動や都市計画の観点から墓地の移転の問題が生じてくるのであるから、寺院側の言い分は聞き届け難しと論じている。ここで興味深いのは、双方が「無縁墳墓」が多くなってきていることを論じ、東京都はそれらを整備するためには墓地を官有地=公有地として「共葬墓地」のまま管理すべきだとし、寺院側は無縁墳墓が多くなって墓地が手狭になってきたので上知した土地を戻すように主張していることである。この両者の論争は、明治 24(1891)年 11 月に「元寺院境内共葬墓地使用規則」を制定され「共葬墓地」として確定されるが、それ以降も寺院と東京府は激しくぶつかり合うことになる。しかし、ここではこれ以上の言及はしないが、明治四年の上知令・地租改正に遡るこの問題の展開を『東京百年史』の「元寺院境内の共同墓地」を引用してその説明をとりあえず補っておくことにしたい*5。
市内各寺院の境内に設けられた共葬墓地は寺領であったが明治六年および七年の太政官布告によって官有地に編入された。それまで寺院の境内と墓地との境が明瞭でなかったが明治八年(一八七五)社寺境内外取調規則の公布によって、境界ははっきりと定まり、つづいて地所処分規則の公布によって官有と民有の境が判然とし、それ以後官有地内の墓地区域は人民の共有地となった。それ以来寺院境内墓地は各区の経営に移り、さらに明治二十二年には市の所属になった。そして各寺院はこれまでの慣行と便宜上単にその管理をなすに過ぎなかった。やがて大正時代となって大都市計画樹立の結果、寺院境内墓地は特に由緒あるもののほかは全部外に移転することになった。
大正十二年(一九二三)四月に開設された多摩墓地(北多摩郡多摩村)、四三万八五二〇平方メートルの広大なそれは、市内に散在する寺院境内墓地を整理移転する目的で開設されたもので、公園的装備を施した近代的墓地となるのである。
寺院自ら墓地を郊外に求めて改葬する場合は旧墓地跡を無償に下付することその他移転実施に必要な改葬規則を制定し移転実現につとめた。
この引用文でも、明治 20 年代において、すでに無縁墳墓の問題が社会問題になりつつあることがわかる。しかし、「無縁」と言うことが仏教関係者の中で使われていたとしても行政担当者が使っていた訳ではない。行政サイドの(A)の文書には「無縁」ということばは出てこない。そして、旧墓地埋葬法(明治 17 年)第 5 条に「改葬」に関する規定があるが、一般的には墓地の移転を念頭においたものであり、もちろん「無縁墳墓」ということばも出てこない。
明治 22 年、「元寺院境内共葬墓地」は東京市の管轄となり、明治 24 年に「共葬墓地使用規則」(東京市規則第三号)および「元寺院境内共葬墓地使用規則」(同、第五号)を制定し、元寺院境内共葬墓地を「共葬墓地」(特定の宗派に属さない墓地)として東京市の規則の管理下においた。当時の東京市の町村の共有墓地*6(この大半は「元寺院境内共葬墓地」であったと思われる)は、面積 325,638 坪 896、筆数では 1.140 筆*7 となっている。
と当時に、「市区改正設計」(明治 22 年 5 月、東京府告示第 37 号)において「市街ニ接近散在スル千坪未満ノ小墓地ハ私有墓地其ノ他特別ノ由緒アル墓地ヲ除ク外漸次他ニ移転セシムルモノトス」として市街地の墓地の移転構想を示している。この墓地の移転構造は、明治 36 年の「市区新改正設計」でも「東京市内ニ散在スル墓地ハ特別ノ由緒アルモノノ外漸次他ニ移転セシムルモノトス」として再び言及されている。移転の対象となった墓地は「元寺院境内共葬墓地」であるが、おそらく、墓地の移転計画はほとんど進展しなかったものと思われる。
その理由の一つは、すでに触れた東京府と寺院との争いである。ここでの問題は、近代の墓地をめぐる土地問題や「墓地と宗教宗教」をめぐる根本的な問題が横たわっており、別の機会に改めて論じることにしたい。ここでは、寺院側の強硬な態度に対して東京府の対応しなければならなかったし、明治維新以降の土地政策全般に関わる問題であったことだけを確認しておこう。
また、市街地からの小規模墓地の移転といっても移転先が明確であった訳ではなかった。その意味では、移転先が確保される大正 12 年の多磨墓地の開園まで、墓地移転の本格的な展開は待たなければならなかった。前述の『東京百年史』(前掲)では、多磨墓地は「市内に散在する寺院境内墓地を整理移転する目的で開設された」とあり、多磨墓地の開設は長年の都市計画の延長線上に開設された墓地であったということができる。
2-2 無縁墳墓の法制度の始まり
無縁改葬が法制度として登場するのは、私が知る限り、大正 13(1924)年の「納骨堂
取締規則」第 12 条「管理ハ無縁ノ遺骨ヲ合納セムトスルトキハ其ノ事由ヲ詳記シテ所轄
警察官署ノ許可ヲウクヘシ」との規定がある。おそらくはここではじめて法令の中に「無
縁」ということばが用いられたのではないだろうか。無縁墳墓の改葬規定はそれからしば
らくして規定されることになる。すなわち、昭和7(1932)年 5 月 1 日の「墓地及埋葬取締細則」(警視庁令第 33 号)において、詳細な無縁墳墓の改葬手続きが規定された(縁故者の照会・日刊新聞五種に三日以上・現場の写真)。このように見ると、大正末期から昭
和初期にかけて、無縁墳墓の改葬手続きが法制度として整えられたと言って良いだろう。
これに至る過程は、研究らしい研究は存在せず、それほど明確になっている訳ではない。
すでに、①東京の市街地ではかなり量の無縁墳墓があって、社会問題になっていたこと、
②東京市は小規模な墓地(主に「元寺院境内共葬墓地」)の移転を考えていたこと、③大
正 12 年には多磨霊園が開園し、移転先の墓地が確保できるようになったこと、について
触れてきた。これに加えて、大正 12 年 9 月 1 日に関東大震災が起こり、14 万人余の人々が亡くなった。これを機会に、墓地の移転計画は本格的に進められていく。
当時、次のような新聞記事が掲載されている*8。また、この時にできた「東京市墓地改
葬規則」と続けて引用しておこう。
○市内の墓地を追々無くする(大正 13 年 7 月 23 日、大阪朝日)
二十一日の東京市参事会に、東京市墓地改葬規則と云ふのが提案された、其の規則に依ると、元寺院境内に在った東京市の墳墓は、大正十八年迄に市外又は、納骨堂に改葬しなければならぬ、然し相当の事由あるものに限つて市長の承認を受け、所在地の墳墓を合併する事は出来る、それから史蹟其他特別の由緒あるものは、市長に於て存続する事がある、改葬費用は、改葬者が負担しなければならぬ、指定の期間内に改葬を了した場合、市参事会の議決を経て、其跡地は無償で下付される、墳墓を市外へ移す為に、寺院の移転を用する場合には、市営墓地附近の市有地を相当代価で特売する、それから市の共葬墓地以外、寺院所有地の個々の墳墓を改葬する場合も、比の規則を準用する事になつてゐる。
○東京市墓地改葬規則(大正 14 年 5 月 12 日・市規則 41 号)*9
第一条 本市元寺院境内共葬墓地ノ墳墓ハ大正十七年十二月末日迄ニ本規則ノ定ムル所ニ依り之ヲ改葬セシムルモノトス 但シ史蹟其ノ他特別ノ由緒アルモノハ市長之ヲ存置セシムルコトアルヘシ
第二条 墳墓ノ改葬先ハ市外又ハ納骨堂若ハ市長ノ承認スル特殊ノ納骨設備タルコトヲ要ス 但シ相当ノ事由アルモノハ市長ノ承認ヲ受ケ市内所在ノ墓地ニ整理スルコトヲ得
第三条 墳墓ノ改葬ハ一地番内所在ノモノ全部クルコトヲ要ス 但シ市長相当ノ事由アリト認ムル場合ニ於テハ其ノー部ヲ改葬スルコトヲ得
第四条 第一条ニ定ムル期間内ニ墳墓ノ改葬ヲ了シタル場合ニ於テハ市参事会ノ議決ヲ経其ノ跡地ヲ無償ニテ下付ス
第五条 墳墓ヲ改葬シ跡地ノ無償下付ヲ受ケムトスル者ハ予メ市長ノ認可ヲ受クヘシ
第六条 前条ニ依リ認可ヲ受ケタル者墳墓一部ノ改葬ヲ了シタル場合ニ於テ相当ノ事由アルトキハ
土地ノ形状ニ依リ其ノ部分ヲ無償下付スルコトアルヘシ
第七条 本規則ニ依り墳墓ヲ市外ニ改葬スル為必要アルトキハ市長本市墓地内ニ一定ノ区劃ヲ設定スルコトヲ得
前項ニ依り区劃、設定シタル場合ニ於テ其ノ使用ニ関シテハ本市墓地使用条例ヲ適用ス
前二項ノ規定ハ本市元寺院境内共葬墓地以外ノ寺院所有墓地ノ墳墓ヲ市外ノ本市墓地ニ改葬スル場合ニ於テ之ヲ準用ス
附則
第八条 本規則ハ発布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
第九条 元寺院境内共葬墓地墳墓改葬規則ハ之ヲ廃止ス
第十条 従前ノ規則ニ依り本市元寺院境内共葬墓地所在ノ墳墓改葬跡地無償下付ニ付市長ノ承認ヲ受ケクルモノハ本規則ニ依り市長ノ認可ヲ受ケタルモノト看做ス
この「東京市墓地改葬規則」は、墓地移転を念頭においたもので、個別的な改葬や無縁
墳墓を念頭においたものではない。そして、改装費用は改葬者の負担で行うとされている
が、「元寺院境内共葬墓地」を改葬したときには、その跡地は無償で払い下げるいうもの
である。明治 20 年代に起こった東京府と寺院との墓地をめぐる対立を「無償の払い下げ
という」という形で決着をつけようとする姿勢をここに見ることができる。実際、この移
転が大規模に行われるのは、昭和 2 ~ 3 年になってからのことである。この時に 237 ヵ寺が墓地移転を行い、多くの寺院が「元寺院境内共葬墓地」を無償で払い下げを受けたもの
と思われる。この移転に関しては、墓地移転については大きく報道されたが、東京市民の
財産の無償の払い下げについては、当時の新聞でもほとんど注目されていない。
○お墓の時代化、掘ち返された仏の数ニ十三万(昭和 3 年 9 月 14 日、国民新開)
関東大震災後郊外に移転された墓地は、約十八万坪その所属関係寺院数二百三十七ケ寺、墓石の数三十三万余嵩、俗に三万三千三百三十三といふ三十三間堂の仏の数の約十倍を掘り返したわけ、さぞ、もろもろの仏は仰天した事であらうが、僅かの墓石を改葬すら面倒なのに、三十三萬とはよくも動かしたものだ、しかしこれも金のカ、復興局では約百五十萬円をこれらのお寺に支彿ったさうだ。全部郊外へ移転した寺は二三ケ寺、大部分は納骨堂式の一墓で済ませる特設墓地、いはゆる文化墓地に変わった。元は墓場の王様のやうに鋭然と構へていた大名の墓も、一塊の標石に過ぎなかつた平民の墓も、皆平等の特設墓地に納まつた、区画整理は資本主義の墓地に一大革命をもたらしたといふもの、宜なるかな富者も貴賓も仏となつては、皆同じ仏ではないか、お寺さんも区整にあつて余程モダンになつたと見え、おれの寺では伊太利のミラノの墓地を参考としてやつたの、やれドイツのライブチッヒの納骨堂に則ってやったのと、大分ハイカラがつてゐるから、将来三階建ての墓地なども出来るだらうとの事だ、古刹では浅草寺と肩を列べる橋場の総泉寺は、郊外志村に引越中であるが、神霊欠口渡の戯作を書いて、江戸っ子をアツと云はせた一代の江戸の才人風来山人平賀源内の墓も、志村に引っ越すとの事だ、内務省の史蹟保存会から、喧しく云はれるので、史蹟の墓地は住職の胸算用ばかりにオイソレと行かす、困り抜いてゐるさうだ、たとへば、「今朝死別生別を兼ぬ子は餓に泣く」と歌った梅田雲濱の墓(松葉町海禅寺)歌と俳句、戯作小説は勿論和漢学の大家であつた石川雅望の墓(黒船町榧寺)を初め伊能忠敬、谷文晃の墓(北清島町源空寺)亀田鵬斉の墓(今戸称福寺)小野蘭山の墓(田島町誓願寺)荷田在満の墓(高原町金龍寺)等々の史蹟墓地は、すつたもんだの揚句残るやうになつた、地口にもいふ「ビックリ下谷の広徳寺」の改葬で、ミイラその他の珍賓が出て来て、ほんとにビックリさせたが、まだビックりさせた寺では、下谷の寿永寺でたゞ一つの墓石から白骨が出初めて、それからそれへと続きとうとう附近一帯が白骨で埋まつてゐたといふ有様で、人夫達も恐くて手が出せなかつたと、これは安政の大地震で非業の最期を遂げた吉原の遊女だけを埋めたのださうだが、関東大震災の復興に際して、同様過去の災難の跡を眠の当り見るとは、織りなされた因縁ではないか、また浅草本壽寺では、天保年間の飢饉で倒れた一千七百五十霊を掘り出したさうだ。
墓地に無縁墳墓改葬がプログラムに乗り始めるのもこの頃ではなかったかと思われる。
細野雲外はこの時期の墓地の移転を次のように報告している*10。
大震災を契機として、東京市内の二百十七ケ寺の寺院がその所属墓地十八万坪の中にある墳墓を、北多摩の新墓地その他へ移挿したが、掘り起された有縁無縁の墓石数、実に三十三萬余を算された、然し次に掲げるやうな各寺院の墓地移転広告に基き、それぞれ移転手続きをなされた有縁の墓数は、全体の幾割であつたであらうか。著者の地元西宮市六湛寺の墓地移転が、昭和二年から五年に亘って行はれた際、移転された墳墓の数一万基の内、大凡その四割のものが無緑墓として、由緒あるものも、無名のものも、ゴツチャにして、一基の万霊塔下に埋設された事実から推定すると、三十三万基の三割約十万の墓石が、略から暗にその形体右を滅したのではないかと思われる。兎にも角にも、個人が偶人の為めに墓を建て個人に拠ってそれを守護すると云ふ、姑息な旧慣に引きづられてゐる問は、如何程金力や権勢に飽かして立派な墓を建ててみた処でそれは全て有縁から無線に、無縁から滅亡の間に葬り去られるまでゞあることを如実に立証してゐる、地下に眠った我等の祖先同胞が、数年数十年、百幾十年後に於てさへも斯くもむごたらしき非宗教的な取扱を受けなければならぬ結果を招来するやうな、昔からの慣習実相は、すべて我等も亦死後子孫から同様の取扱を受けなければならぬ報を暗示してゐるではないか、我等は最早や『個人の為めに個人が墓を建て、個人によつて守護する』と云ふ旧慣を全廃せねばならぬ、されば、墓の建立に関する従来の悪慣例を固守して寺や墓を建立しても、予測べからざる天変地異や、郡市計画や或は道路溝渠などの為め、必然的に無縁滅亡に帰するものであるから、こりや何とか改革しなけれぼならぬと云ふ自覚と印象を深刻ならしむる為め、次に震災後に於ける東京市内二百余ケ寺の墓地改葬の実情と、その広告の原文をそのまま特記して、世人の注意を喚起することにする。(以下略)
また、この文の中に出てくる移転の時の広告は昭和 2 年 5 月から 10 月の間に新聞紙上
に掲載されたという。その内容は次のようなものである。
今般区画整理に付、左記三十五寺寺院管理墓地は、路線又は更地の焉め、一部若くは全
部改葬の上、特設墓地、納骨堂、郊外移転等、各寺の計画に依り整理上改葬の必要有之候
條、檀徒又は縁故者にて住所お知らせ無き方は、昭和二年九月十一日迄に御申出被下度、
萬一日迄に御申出無之時は、共筋の許可を得管理者に於て、適宜処理可致右広告候
以下寺院名など
「市区改正設計」によって計画された墓地の移転計画は、関東大震災をきっかけにして
本格的な移転計画が実施に移されることになり、この昭和 2 年の墓地の移転のなかで実現
される運びになった。これは寺院にとって見れば、この計画は上知された墓地が無償で払
い下げられるものであったし、自分達が管理してきた墓地の無縁墳墓が一斉に改葬でき、
この問題も一緒に解決するものであった。
この時期、都市化の中で大阪・神戸・名古屋等都市部を中心として土地の区画整理とと
もに墓地の整備が行われている。この墓地の整備は、必然的に無縁墳墓の改葬をともなう
ことになる。このような都市計画・土地区画整理事業が無縁墳墓の改葬手続きの整備に繋
がったものと思われる。また、昭和のはじめに無縁墳墓の改葬が実際に行われている。昭
和 2 年には橋場墓地、昭和 4 年には亀戸墓地、昭和 10 年には青山墓地の無縁改葬が行わ
れ、多磨墓地に遺骨が改葬されている。
この時の無縁改葬について、『多磨墓地』*11 には「この霊園内の無縁墓地整理により
生じたもの、明治七年に開設された古い市墓地であった亀戸、橋場の両墓地を、整理廃止
したとき出た無縁仏をここに移したもの、あるいは、青山墓地の無縁仏を、多磨墓地内 17
区に、1 カ所 1.5 平方メートルあたりの小さな墓地をつくり、これに並列埋葬してあった
ものを、改めてここに埋葬したものもある(17 区にあったときのその墓地を古い写真で
みると、あたかも外国などにある軍人墓地のように、小さな石塔の群立しているのがみえ
る)」とある。青山墓地の無縁墳墓として改葬した焼骨は多磨墓地の第 17 区で埋葬し直し、
「小さな石塔が群立してい」たとあるから石塔も建て直したのであろうか。この点に関し
てもなお詳細は不明である。
ともあれ、都市部を中心に墓地の整理が頻繁に行われるようになってきた。このような
状況を踏まえて、昭和 7 年 10 月 1 日に「墓地及び埋葬取締細則」(警視庁令第 33 号)によって、次のような無縁墳墓の改葬手続きが規定された。
○「墓地及埋葬取締細則」(警視庁令第 33 号、昭和 7 年)
第 11 条 無縁墳墓ノ改葬ヲ為サムトスルトキハ左ノ手続ヲ完了シ之ヲ証スへキ書類ヲ前条ノ願書
二添付スへシ*12
一 墓地使用者及死者生前ノ本籍拉住所地ヲ管轄スル市区町村長ニ縁故者ノ有無ヲ照会スルコト
二 日刊新聞五種ニ各三日以上改葬広告ヲ為シ縁故者ノ申出期間ハ三箇月以上卜為スコト
三 現場ノ写真又ハ図面ヲ作製スルコト
前項ノ出願書類ハ正副ニ通ヲ提出スへシ
願書ノ副本ハ許可証卜共ニ交付ス管理者ハ之ヲ永久保存スへシ
第 12 条 発掘シタル無縁墳墓ノ遺骨ハ左ノ方法ニ依り之ヲ保管スへシ
一 一基毎ニ別箇ノ容器ニ収メ法名,俗名・死亡及改葬年月日其ノ他必要事項ヲ明記スルコト
二 容器ハ陶器又ハ不朽性ノモノトスルコト
第 13 条 明治元年以前ノ死亡者又ハ行旅死亡人其ノ他特殊ノ事由アル者ノ改葬ニ係ルトキハ墓地
所在地所轄警察署ノ許可ヲ受ケ前二条ノ規定ニ依ラサルコトヲ得
この手続き規定において、注目すべきことは次の三点であろう。
1 日刊新聞五種に三日以上という厳しい規定をおいたことである。
2 改葬した無縁墳墓の遺骨の保管を求めていることである。現在の無縁墳墓を改葬した
後、その遺骨の処理に関しての規定はない。改葬された遺骨は、法的には祭祀財産ではな
くなる訳であるから、結果的にはゴミとして処理されることになる。墓地埋葬法において、
無縁改葬された遺骨の処理が規定されていないことがむしろ問題なのだろう。
3 明治元年以前の死亡者や身元不明者等の遺骨の改葬に関しては、第 11 条・第 12 条の
適用を受けないことが規定されている。身元不明者としての「無縁仏」(明治元年以前の
死者も同じである)と承継者がいなくなった「無縁仏」を区別していたことになる。
2-2-3 現在の無縁墳墓の手続き
昭和 23 年 5 月 31 日、「墓地、埋葬などに関する法律」(法律第 48 号、以下「墓地埋葬法」と呼ぶ)が制定され、旧法(「墓地及埋葬取締規則」[明治 17 年])が廃止された。無縁墳墓の改葬に関する規定は、この法律の施行規則第 3 条に規定された。改葬一般に関する規定と一緒にまとめると次のようになる。
○墓地、埋葬などに関する法律施行規則[昭和23年7月13日 厚生省令第24号]
第2条 法第五条第一項の規定により、市町村長の改葬の許可をうけようとする者は、次の事項を記載した申請書に、埋蔵若しくは納骨の 事実を証する墓地若しくは納骨堂の管理者の証明書を添えて、同条第二項に規定する市町村長にこれを提出しなければならない。
1.死亡者の本籍、氏名、性別(死産の場合は、父母の本籍、氏名)
2.死亡年月日(死産の場合は、分べん年月日)
3.埋葬又は火葬の場所
4.埋葬又は火葬の年月日
5.改葬の理由
6.改葬の場所
7.申請者の住所、氏名及び死亡者との続柄
第3条 無縁墳墓に埋葬された死体(妊娠四ヶ月以上の死胎を含む。以下同じ。)又は埋葬された焼骨の改葬を行おうとする者は、前条の 申請書に、左に掲げる事実を証明する書類及びその墳墓の写真若しくは図面を添えて、これを墳墓所在地の市町村長に提出しなければならない。 但し、当該土地の使用に関する権利が相当法令の規定に基ずき公に消滅させられ又はその消滅が公に確認されていなければならない。
1.墓地使用者及び死亡者の本籍地及び住所地の市町村長に対して、その縁故者の有無を照会し、無い旨の回答を得たこと。
2.墓地使用者及び死亡者の縁故者の申出を催告する旨を、二種以上の日刊新聞に、三回以上公告し、その最終の日から二ヶ月以内にその申し出がなかったこと。
この墓地埋葬法の成立過程の中で、興味深い議論が衆議院厚生委員会で展開されている
榊原亨委員の「墓地または納骨堂の管理者が、その死体あるいは遺骨をを保管する責任に
ついて、どこにどういう規定が設けられててございますか」という質問に対して、三木(行)
政府委員は「・・・別に期限を定めておりませんので、無期限である」という答弁を行う。
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これに対して、榊原は次のような議論を展開する(昭和 23 年 5 月 26 日、衆議院厚生委員
会議事録 第 3 号)。
○榊原(亨)委員 この無期限ということが非常に問題と思うのであります。たとえば、一度埋葬
した者は永久的にこの管理者が責任をもたなければならぬということは、今までございますように
無縁仏とか何とかいろいろなことがございましてその点の責任をはっきりしなければ、・・・・一度収
容したものをいつまでどういう責任で管理するかということが一つのこの法律案には出ていないの
であります。この点はひとつ何とか御改正を願うとか・・・
○三木(行)政府委員 御指摘になりました無制限・無期限な責任をもつということは誠に無理で
ございますが、・・・・ある時期になりますと、墓地あるいは納骨堂についても改葬という問題が自然
発生的に出てまいりますので・・・・(このような)問題は自然に解決するものであると私どもは考え
ている次第であります。
○榊原(亨)委員 改葬するまで責任をもつということになるわけですか。そういうことは法律上
なかなか難しいことだと思うのであります。たとえば書類は五箇年間保存してありますけれど、三
年目にそれを掘り上げてしまって、外の骨を埋めるということをいたしましても、何も法律上抵触
しない、あるいは罰則を受けないということになりますと、これは重大な問題だと私は思うのであ
りまして、この点の責任をはっきりする必要があると思います。改葬するまで待つというのは、何
年目に改葬するかわからないのに、改葬するまでその保管者が責任をもたなければならぬというこ
とにつきましては、多大の疑問をもっているわけであります。
○三木(行)政府委員 改葬を行うにあたりましても許可が必要でございますので、その点からも
制約することができる・・・・
○榊原(亨)委員 この点はたとえば何年間とかというものはこの管理者はその保管義務があると
いうふうなことをやるとか、あるいはゆえなくこれをあばく、あるいはさらにほかの骨をそこに埋
める知右場合には、どういう処罰をするという規定がこの中に必要だと思います。・・・
○三木(行)委員 ・・・今後墓地納骨堂等は公共団体等をしてやらせていく方針でございますので、
これらの管理につきましても十分民意にしたがう管理ができ得るものであると考えるのでありま
す。
○榊原(亨)委員 ・・・死体の霊に対しても不敬にならないよう十分考慮をお願いしたいと存じま
す。・・・
この議論は、墓地の利用に関する本質的な問題を提供している。まず、墓地経営者の義
務とは何かという問題である。ここで、墓地経営者は遺骨の保管者であるという理解が示
されている。しかし、現在の墓地経営者に墓地使用者から遺骨を預かりそれを保管する義
務があるという意識があるのであろうか。墓地経営者にある意識はおそらく墳墓を建立す
る場所を提供するという程度の意識しかないのが普通であろう。
また、これと関連して、使用者が墓地使用権を取得した後、最低限度どの程度の期間の
使用が認められているのだろうかという問題である。そして、問題はこの使用期間と無縁
墳墓の改葬がどのように関わるのかということである。
常識的には、これら問題は次のように理解されている。
①墓地の経営者から取得する使用者の権利は「墓地利用権」として位置づけられ、その権
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利は祭祀承継者によって承継され、その期間は一般に「永代」として理解されている。
②遺骨の所有権は祭祀承継者に帰属するものとされ、墓地経営者はその保管場所の提供者
として理解されている。後段に関してはこれまで充分な議論は展開されていないが、遺骨
の処分に関しては第一義的には祭祀承継者に権利は帰属する、というのが一般的な理解だ
ろう。
③墓地の使用期間は定められていないが、一般には「期間の定めのない契約」とは理解さ
れていない。つまり、墓地経営者から一方的に契約の解除を申し出ることはできない。
④墓地使用権の承継者がいなくなったとき、当該の墳墓は無縁墳墓として改葬される。も
っとも、行政の立場としては、墓地の使用契約は私法上の契約であり、無縁墳墓の改葬は
行政上の手続きであるという観点から、別レベルの問題であるとする。昭和 23 年 9 月 13
日、事務次官から各都道府県知事にあてた通達(厚生省発第 9 号)の「無縁墳墓に埋葬さ
れた死体等の改葬」の第4項に「施行規則第 3 条に無縁墳墓に埋葬された死体等の改葬の
取扱手続が規定されているが、これはあくまで改葬に必要な手続のみに得られるものであ
って、墳墓の所有権、地上権等の私法上の物権等の処置に関するものではない。したがっ
て、無縁墳墓と認定されたものについては、その私法権の権利変更等を行う場合は必ずそ
れ等の規定によることが必要であること」と論じている。つまり、墓地使用権は私法上の
問題であり、私法上の権利関係が解消された中で無縁墳墓の改葬が行われるのだという立
場に立っている。
しかし、このような権利関係の構成には無理があると思われる。つまり、祭祀承継者の
存在を前提とし、遺体や遺骨を承継者によって承継していくと枠組みを前提としているが、
墓地の現実的な使用者は死者であって、承継者である訳ではない。守るべきは死者の権利
なのである。
墓地使用権は、祭祀の承継者の権利であって、死者の権利ではない。民法における祭祀
条項は、承継者(祭祀の主宰者)にとって墓地使用権が重要なのは「祭祀の場」を確保す
るためであり、それ故に墳墓(あるいは墓地の使用権)を「祭祀財産」として法は認めて
いるのである。この墓地の使用者が「あうんの呼吸で」死者の権利を代弁するものと見な
して、死者の尊厳性も確保できると考えてきたのだろう。しかし、問題はこの祭祀の承継
者がいなくなるのである。これからの死者の多くは祭祀の承継者を確保することができな
いまま、死んでいかざるを得ないのである。
無縁墳墓の改葬において守られるべきは死者の尊厳性なのである。この問題は、次節に
おいて再び論ずるとして、ここでは無縁墳墓改葬のシステムの戻ろう。榊原委員が述べた
ように、墓地埋葬法においては墓地の現実的な使用者の最低限度の権利は何であるかが明
示されないまま、同法施行規則によって無縁墳墓の改葬手続きが規定された。しかも、昭
和 7 年に定められた手続きが次の意味において簡素化されていた。
(1)広告を出す新聞の種類は 5 種類から 2 種類に変更されたこと。広告の回数が 3 回(日)
であるのは同じであるが、新聞の種類が 5 種類から 2 種類に減ったことである。
(2)改葬した遺骨の保存が定められていたことである。第 12 条第 1 項において「一基毎ニ
別箇ノ容器ニ収メ法名,俗名・死亡及改葬年月日其ノ他必要事項ヲ明記スルコト」として
遺骨の保存を定めている。現行法においては、この種の規定はおいていない。したがって、
次のように解釈されている。「無縁」になった遺骨は祭祀承継者がいなくなったので、「祭
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祀財産」と見なされることはない。それ故、墓地埋葬法の対象となる「遺骨」ではなく、
所有者のいない単なる「物」として見なされることになる。強いて言うならば、この処理
に対する規制の法律はゴミ処理法になるのだろう。
改めて墓地埋葬法制定当時の議論を振り返ってみて気付くことは、三木(行)政府委員
の発言にみられるように、政府は遺骨を永遠に保存するとは考えていなかったことである。
三木は、いつまで保存するかということは「自然に解決するもの」という見解を示してい
る。それは、「あうんの呼吸」で行うものであって、明確な保存期間を定める必要なはい
という趣旨なのであろう。この前提になるのは、簡素化されたとはいえ、無縁改葬するた
めには新聞広告を出すなど、改葬を行う側で厳しい条件を乗り越えなければならなかった
からである。もっとも、全国紙2紙にそれぞれ3回の公告を出すことは改葬を行う主体の
大きな経済的な負担を強いるものであり、そのことが安易な無縁墳墓の改葬の抑止力につ
ながっていた。
しかし、このように抑止効果の強い無縁改葬の手続きは、改葬の主体となる墓地経営者
からみれば、現実に無縁墳墓が発生しても無縁墳墓の改葬公告を出すために多額の費用が
かさむために改葬の実施に踏み切ることができず、墓地の中で無縁化した区画で虫食い状
態になり、墓地の荒廃化を招く結果にもつながっていた。高度成長期においては、墓地の
供給が行政サイドの課題であったが、人々の移動や少子化のなかで無縁墳墓が増加する傾
向ははっきりしてきたとき、特に墓地経営者のサイドから無縁墳墓改葬手続きの更なる簡
素化が求められるようになってきた。
この改葬に関する議論は、総務庁の斡旋によってはじまり、「懇談会」の議論を通じて、
平成 10 年に同手続きを定めた墓地埋葬法施行規則(省令)が改正された。懇談会の報告
書にには次のようにある。
(無縁墳墓の改葬)
無縁墳墓の改葬手続は改める必要がある。現行制度は、2 紙以上の新聞に 3 回以上の公告を
求めているが、この公告手続が今日では高額の費用がかかりながら実効性が薄いことは、総
務庁の「あっせん」が指摘するとおりである。本懇談会は、現行の公告手続に代わる方法と
して次のような方法を提案する。
・官報で公告する。
(理由)公的な手続として一般的であり、廉価である。
・無縁墳墓として改葬する墳墓に立札を立て、一年間維持する。
(理由)最も原初的ではあるが、社会常識に合致すると考えられる。
・公的な団体が公告内容を永久保存し、当該団体の事務所で公衆の閲覧に供する。
それとともに、当該団体のインターネット上のホームページに公告する。
(理由)墓地経営者の公的団体が自らの責任で公告内容を保存することは望ましく、
また、インターネット上の公告は、最も今日的な伝達方法であり、全国から容易にアクセ
スが可能である。さらに、永久的な記録保存という要請にこたえられる。
この結果、墓地埋葬法施行規則第3条は次のように改正された。
第3条 死亡者の縁故者がない墳墓又は納骨堂(以下「無縁墳墓等」という。)に埋葬し、又は埋蔵
し、若しくは収蔵された死体(妊娠四ヶ月以上の死胎を含む。以下同じ。) 又は焼骨の改葬の許可
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に係る前条第一項の申請書には、同条第ニ項の規定にかかわらず、同項第一項に掲げる書類のほか、
次に掲げる書類を添付しなければならない。*13
1.無縁墳墓等の写真及び位置図
2.死亡者の本籍及び墓地使用者等、死亡者の縁故者及び無縁墳墓等に関する権利を有する者に対し
一年以内に申し出るべき旨を、官報に掲載し、かつ、無縁墳墓等の 見やすい場所に設置された立
札に一年間掲示して、公告し、その期間中にその申し出がなかった旨を記載した書面
3.前号に規定する官報の写し及び立札の写真
4.その他市町村長が特に必要と認める書類
(1)新聞による公告が官報による公告に変更された。
この変更は、新聞による公告に実効性がないことがその理由であるが、改葬の情報を1
ヵ所に集中することによって情報の管理が可能になること。また、新聞に広告を出すため
には膨大な費用を必要とするが、官報掲載の場合には五万円前後の費用で広告を掲載する
ことができる。
(2)1ヵ年の立札を設置することを求めたこと。
9割以上の人々が先祖の墓に年1回以上墓参りをするという意識調査のデータに基づい
て、立札を設置することによって無縁墳墓であるかどうかの最終確認を行うことである。
この手続きに基づいて現実にどのような改葬が行われていくかは次章の課題であるが、
ここでは次のことだけを確認しておこう。まず、無縁墳墓の改葬手続きの簡素化によって、
墓地使用者あるいは死者の尊厳性は護られているのかどうかという問題であり、改葬を許
可する行政の監督責任の問題である。
2-3 墓地使用権のあり方と無縁墳墓の改葬
さて、この無縁墳墓の手続きの制定は、墓地使用権の「永代」という観念を実質的に無
効にした。ある一定の要件の下で、墳墓の縁故者がいないことが確認されると無縁墳墓と
して改葬される可能性がでてきたことである。私たちは、このことを明確に認識しておか
なければならない。
無縁改葬の手続きは公法上の手続きであり、私法上の墓地使用権が消滅していることを
前提として無縁墳墓の改葬ができるというのが法律の建前である。つまり、墓地の永代使
用権は私法上の問題であり、無縁墳墓の改葬手続きが公法上の問題であるから、この2つ
は別のレベルの問題であり、私法上の権利の消滅を前提として改葬が可能なのだという論
理は一見正当な議論であるように思える。しかし、現実には無縁墳墓の改葬を容易にする
ために、墓地の使用権そのものが簡単に契約解除あるいは使用許可の取り消しができるよ
うになっている。「永代使用権」と言われてきた墓地使用の権利が消滅すること、ここに
現在の墓地使用権の問題がある。
では、どのようなときに墓地使用権が消滅するのであろうか。この問題は、墓地のあり
方と関連して、現実には複雑なあり方を示している。
◎墓地の分類
墓地の分類はいくつかの観点からおこなうことができる。ここでの分類は、墓地という
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土地の性格に基づた分類であると同時に、また墓地使用権のあり方に焦点をあてた分類で
ある。
・伝統型墓地 ①部落有(ムラ)墓地(村落共同体が所有・管理する墓地)
②寺院墓地(寺院が檀家・信徒のために設けた墓地)
③同族墓地(親族集団が墓地を所有する形態)
④個人墓地(個人が自己の所有地に設けた墓地、自己の屋敷地および屋
敷付属の墓地に設けた墓地と特に屋敷墓地と呼ぶ)
・霊園型墓地 ①公営墓地(国、都道府県及び市町村等の地方自治体が経営する墓地)
②事業型墓地(宗教法人・公益法人等の民間団体が経営する墓地)
○伝統的墓地
一般には近代的な墓地法制が展開される以前にできた墓地であり、墓地の所有権が部落
(村落)・寺院・個人にあることから上記のような分類が行われる。
・部落有墓地(ムラ墓地)=部落(旧村=ムラ)が所有する墓地であって、その利用者は
部落(旧村=ムラ)の構成員に限定される。一般的には、墓地は部落(ムラ)の総有のも
とであり、その利用は入会権的な性格を持つ。しかし、